Secret Mission
キスにまつわるラピスとゴーストの話。過去ねつ造。
図書室の暗がりで影が動くと、ぎし、と木材が軋む音がした。
後ろに手を付き、逃げるような姿勢で机に腰を下ろしたゴーストは、ラピス・ラズリを見上げている。そんな状態だから動けないでいるのに加えて、彼の顔にはラピスの両手が添えられて顔すら動かせない。
まるで彼の美しい顔にベールが掛けられているようだ。瞳はしっかりとラピスを見つめているのに、表情が読めない。きっとベールの下で彼は薄く微笑んでいるのだろう、と自分でもよくわからないことを考えていた。
遠くで風が低く唸っている。威嚇するような、あるいは咎めるような風音が自分を責めているように聞こえる。
少なくてもゴーストにはそういうことをしている自覚があった。
「このまま君に近づいてもいい?」
「そうしたら、どうなるの?」
むき出しの親指がゴーストの唇に触れ、上唇から下唇まで、ねっとりと這っていく。正気を奪っていこうとする誰よりもいとおしいひとの指先。唇を走る経験したことがないもどかしい感覚。
さっきからずっと、彼の唇が僕の唇に触れたいと訴えている。
震えるそこから出てきたか細い空気がラピスの指を擽った。彼は何か面白いものを見たように笑い、より一層顔を近づけた。
「試してみる? 大丈夫だよ、悪いようにはしない。ほら、目を瞑って」
どうしてこんなことになったのだろう。そう思いながら、言われた通り目を閉じる。いいこだね、と褒め言葉とともに彼の綿毛みたいな吐息が唇をかすめて、ぴくりと瞼が痙攣した。
♢
図書室は不思議な香りがする。紙とインクとそれから、埃の匂い。定期的に掃除をしても、ここの空気は変わらない。まるで空間そのものに匂いがついているようだった。始めは気になっていたそれも、今では図書室の一部で、意識しない限りどこの空気とも変わらない。
ラピスもまた、図書室の一部だ。ここは彼の仕事場であり、居場所。なので当たり前といえば当たり前。
図書室に関すること全般は、ラピスによって管理されている。見回りの時以外、彼はここで読書をしている。蔵書を把握するためだと言うが、単に本が読みたいだけで、管理しているとは言えないかもしれない。彼の仕事がそれでも成り立っているのは、図書館利用者がそう多くないからだ。
図書室はゴーストの居場所でもある。相棒である彼の仕事を時々手伝っているから。
ラピスはとても物知りで、ユークレースと同じくらい頭が良い。ユークと違うのは彼の思考が飛躍しすぎているところで、止まることを知らない頭は時に奇抜な答えを導き出し、ラピスを動かす。皆がよく口にする「ラピスは天才だから」は本当に褒め言葉かなんて、本人は気にしていない。
内勤向きと思われがちだが、彼は戦争に関しても才がある。戦うことより状況を見極めて指示する方が得意、だからといって剣が下手ということでもなく、むしろそつなくこなす。
太陽が真上から少しずつ降りてきた頃、貸出から戻ってきたまま山のように積まれた本をゴーストは見上げる。午前中、未返却リスト片手に回収してきた本だ。本来はラピスの仕事だけれど、彼は昨日からずっと同じ本を読んでいる。眠っていないかもしれない。おやすみを言って別れて、ラピスは朝礼に顔を出さなかった。夢中になるとこれだ。ゴーストの仕事の成果も、ラピスには見えていない。
(仕方ないな)
『中のこ』がため息を吐いたので、そうね、と声には出さずに返事をした。手始めに一番上の本を取り、棚を見て歩く。戻すべき場所は高く、背伸びをして棚に収めた。本の住所は大体把握している。ラピスには敵わないけれどそれなりに。
本棚を何度往復しても、築かれた山は一向に減らない。ゴーストが、やっぱり手伝ってもらわない?と提案しようとした時。ぱちり、とラピスと目が合った。大きく見開かれた目は、今まで彼らの存在に気づいていなかったことを暗に告げている。
少しも悪びれた様子もなく、ラピスは、おはようとずれた挨拶をした。もうお昼よ、なんて野暮なことは言わず、おはようと返事をする。ラピスは満足げに笑ってこう言った。
「ねえ。僕とキスしてみない?」
「……えーっと……」
そこの本、取ってくれない?と同じ響きで紡がれた言葉は、ゴーストには全く理解できなかった。何を示す言葉なのかも分からないので聞き返す。
「キスってなに?」
「ああ、そうか。君は知らないんだね。よしよし、教えてあげよう。キスっていうのは、互いの口を触れ合わせる行為のことさ」
ゴーストは首を傾げる。口を合わせる、とは文字通りの意味だろうか。喋る以外に口を使うことなんて初耳で、いまいち想像でなかった。
ゴーストの様子を見たラピスも同じように首を傾げ、何か思いついた表情を浮かべた。
「口じゃなくて唇って言えばわかる?」
と言って、分厚い本に触れていた手を口元へ引き寄せた。ここ、と指し示すかのようにラピスの指が軽く閉じた己の唇をなぞる。
子ども扱いされているようで、ゴーストはムッとした。きっとラピスは僕をからかっているんだ。絶対にそう。だって彼の表情はとても楽しそうなんだもの。
唇をなぞった手が再び本に触れ、表紙を撫でる。知識の源は彼が夢中になっていた本から得たようだ。
「肝心なところはボロボロで読めないんだけれど。どうやら古代生物の文化について書かれているようでね。なぜそんな本がここにあるのか、一体誰が書いたのか。気になるけど後で考察するとしてだ。この本によると、キスには行為そのものを始め、唇を寄せる場所によっていろんな意味があるらしい」
「例えばどんな?」
「聞きたい?」
「話したいのはラピスでしょう」
「違いない。流石は僕のパートナー、といったところかな」
ラピスは本を開いた。ぱらぱらと結構なスピードでページが捲られていく。
彼には自分の得た知識を話したがる癖がある。ゴーストが理解できるできない、興味の有無は関係ない。自己顕示欲とは違う彼独特の何かが、そうさせるらしい。たまには付き合ってあげてね、と組んだばかりの頃ユークに言われた。そう助言したユークは彼に話を振られても、二、三言葉を交わして切り上げてしまう。
ゴーストは違った。ラピスのことは何でも知りたい。彼の語り方は優雅で自信に溢れている。知的な声は歌うように滑らかに言葉を紡ぐ。彼の頭の中を埋め尽くす事柄を彼の言葉で語ってほしい。いつだってそう思っている。
「あった!ほら、ここ見て。挨拶代わりにキスする習慣があったって書いてある。頬に軽く口付けて挨拶。僕たちには考えられないよ。『おはよう』だけじゃ伝わらないほど、古代生物の言語力は貧弱だったのかな」
「ラピスがしたいキスって唇よね?それはどういう意味があるの?」
「君にしては大胆な質問だ。すぐに答えを出すのは勿体無いことだけど。まあいいか。わかりやすく言うと、うん。この言葉がぴったりだ」
ゴーストの傍にきたラピスは、足を止めた反動でこぼれ落ちた長い髪を耳に掛けた。
それから内緒話をするように口元に手を添えて、ゴーストの耳に向かって吐息交じりに言った。
「とくべつってことだよ」
とくべつ、トクベツ、特別。
甘い響きが鼓膜を揺らし、ぞくぞくしたものが身体を巡った。間髪を入れずに耳元で硬質音が弾ける。両手で耳を覆ったせいだ。ラピスがうまく避けてくれて助かった。彼を割るなんて失態はあってはならない。
インクルージョンが騒ぐようで落ち着かない。実際そんなことはないけれど、例えるなら、開いた傷を閉じる時に走る刺激に似ていた。
今のは何だったのだろう。
とくべつ、と口の中で反芻してみたけれど、先程のような衝撃はなく、言葉は喉の奥に消えていった。
「よく、わからないわ」
「わからないからやってみるんだよ」
「ラピスにもわからないことがあるのね」
その呟きに、彼は笑みを浮かべる。
「たくさんあるよ。だから僕に教えて欲しい」
「僕、でいいの?」
「君がいいんだ。天才な上に変わり者で近寄り難い僕と組んでくれる、とってもいいこたち。君はただ、許可をくれるだけでいい。中のこにも聞いた方がいいかな。どうだい?」
見下ろすラピスには困惑したゴーストが映っている。どこまでも深い瑠璃はゴーストを絡めて飲み込もうとしているようだった。彼はそんなことをしないと分かっていても、本能が警鐘を鳴らす。
ラピスの突拍子のない言動は今に始まったことではないが、やはり対応に困る。どう答えるのが正解なのか、ゴーストには分からないからだ。ユークがするように受け流すことも考えたが、頭の回転も遅いし、第一彼に嫌われたくない。
黙り込んだまま、ちらちらと視線を向けてくるゴーストに、ラピスも口を噤んだままだった。暫くして、沈黙を破ったのはラピスの方で、右手でひたりとゴーストの頬に触れた。無意識に身体を引いたせいで、ゴーストの尻が机に当った。
ラピスの手は温かくも冷たくもなく、ただ硬かった。
♢
「おっと。少し悪戯が過ぎたね。やはりここは、君の意見を尊重した方が良さそうだ」
どのくらい暗闇にいたのかわからない。数秒だったかもしれないし、もっと長かったかも。ラピスの声に恐る恐る瞼を持ち上げる。眩しさに数回瞬いて、ラピスの顔が先程より遠くにあってほっとした。それでも十分に近い。
「さあ、ゴーストの答えを聞かせて」
短すぎるシンキングタイムで答えなんか出るはずもなく。少し悩んで、頬に触れる手に自分の手を重ねる。手袋は外していたので緊張で手が震えた。こういう時こそ、中のこが出てきてくれればいいのにと思う。彼はラピスが頬に触れた瞬間、小さく息を飲んで以来、気配を消している。
「その、ラピスの言うキスにも興味はあるけれど……やっぱりだめよ。唇を合わせるなんて危ないわ。ラピスが割れてしまったら困るもの」
「心配してくれてありがとう。君は優しいね。それとも、うまくやる自信がないのかな?中のこもそうなの? パートナーの僕が、それでもいいと言ったら? 君はとくべつになりたくない?」
矢継ぎ早に浴びせられる質問に、ゴーストは動じなかった。
「やあね、ラピス。僕にとってあなたは十分特別よ。伝わってなかったのなら、謝るわ」
ラピスの目が大きく開く見開かれ、息を飲むのがわかった。冷静沈着な彼らしからぬ反応に、自分の発言を思い出して、途端に羞恥心が湧いてきた。
でもこれは本心で、きっと中のこだって同じ気持ちだと思う。ラピスがいるから何も怖くない。
ふと、特別の意味がわかった気がした。授業で答えがわかった時の衝動に似たものがゴーストを駆り立てたせいで、早口ぎみで言葉が出た。
「ダイヤに聞いたんだけれどね、『特別』は『好き』ってことなんだって。今僕の中にある気持ちが、そうだったらいいなって思うの。あ、『好き』と『キス』って似てるよね。好きだからキス、するのかしら?」
「ふーん。あのこ、そんなこと言ってたんだ。興味深いなあ。その話、もっと詳しく聞かせてよ」
「え、あ、あのね! ダイヤに秘密って言われているから。喋っちゃったけど……」
ごめんなさい、と謝った相手はダイヤモンドなのかラピスなのか。両方かもしれない。ラピスは項垂れる彼の頭を撫でてやった。
「君はもっと自分に自信を持ってもいいのに」
そこも可愛いんだけどね、と付け加えるとゴーストは顔をそむけてしまった。
外が騒がしくなった。校内を走る足音がこだましている。月人の襲来があったのかもしれない。ラピスはちらりと剣に目をやる。しかし鐘が鳴る気配はなく、慌てて出ていくこともないと結論を出した。人手が足りなければ、誰かしら呼びに来るはずだ。
ゴーストもまた同じ判断をしたようで、左手で押さえつけていた右手を解放した。中のこはすぐ飛び出そうとするから、と言っていたことを思い出す。前よりはうまくやっているようだ。
小さく息を吐いたゴーストが真っ直ぐラピスを見据えた。
「ラピスの為なら何だってやるわ。その、やっぱりキス、する意味はわからないけれど」
せっかくのかっこいいセリフも、後半のキスのくだりで照れてしまったせいで台無しだ。でも、それでいよいよ可愛らしくなってしまって「君たちに本を読んであげるのと同じだよ」と告白した。
「愛情表現、たいせつってことさ」
満面の笑みを浮かべるゴーストにラピスも笑みを返す。
これ以上話していたら、いらぬことや本心まで打ち明けてしまいそうで、ラピスは身体を起こして大きく伸びをした。
「さてと。そろそろ真面目に仕事をしようかな。君ばかりに仕事をさせている、と怒られたばかりだしね。ゴースト、本を片付けるの、手伝ってくれるかい」
「ええ。もちろん」
本を抱え軽やかに床を踏むゴーストに「ところで、ダイヤの『好き』ってボルツのこと?」と聞くと、ゴーストがあからさまに慌てた様子で言い訳するものだから笑ってしまった。
すごく艶っぽい話が書きたくなった時があったのです。あったのです……
これが私の限界、だと思う。とにかく雰囲気を作りたくて、色々気を遣いました。こんなに表現に悩んだのは久しぶりでした。
このふたり、原作では全然絡みがないのが不思議なくらい、好きです。とても。過去捏造しまくりですね。
私の中で、ラピスとゴーストは百合イメージなんです。だから書きやすいのかもしれません。
というかラピスが勝手にぺらぺら喋ってくれるので助かります。笑
こちらは加筆修正して新刊に収録しております。「夜会のエメラルド」の方です。
詳細はpixivにて掲載しています。初めての個人誌、もし興味がある方はよろしくお願いします。
以上宣伝でした。
(プライベッター掲載)
0コメント