曖昧なリアル
オリジナル。百合。半同棲のOLとフリーターの話。
「……なぜ」
いや、確かに鍵を閉めて出勤したはずだ。驚きや恐怖、焦りといった感情よりも先に思考が一通り動いて、最後にため息が漏れた。
外はすっかり夜闇の中で、朝晩は冷える季節になった。だからこそ、一刻も早く窮屈な靴から足を解放し、ベッドにダイブしたい。その欲求を鉄の扉が阻んでいる。
私は鞄の中に手を突っ込んで、手探りで携帯を取り出した。ショートカットキーを駆使して、「いるの?」とシンプルな文面を送ると、すぐ既読が付いた。返信はない。
泥棒ではないことがわかれば十分だった。もう一度鍵を回して今度こそ部屋に入る。見慣れた靴が目に入り、私に反応したセンサーが灯りをつける。廊下の奥は暗い。アプリを開いたまま寝ているのだろうか。
起こしたら面倒だと思って、そっとドアを開けた。ひゅう、と風が吹き抜けて、ほのかに金木犀の香りがした。暗闇の中にいるのは、夜明け前に家に帰ったはずの彼女。
「いるなら反応してくれてもいいんじゃない?」
「おかえり」
「ただいま。で、何してるの?」
「月を見てる」
窓の外を眺めている彼女はこちらを見もせずに答えた。家に帰ったんじゃないの、と聞いても意味がないと思ってやめた。ふらっとやって来てはいなくなる猫みたいなやつだから。
「月なんて見えないじゃない」
私がいる位置から見えるのは、向かいのマンションの最上階だった。部屋の真ん中に置かれていたローテーブルに肘をついたまま、彼女が手招きをしている。私は素直に彼女の向かい側に座った。
濃紺の空に灰色の雲が伸びている。ぼんやりと明るいところに月があるのだとやっとわかった。見えない月を眺めて何が楽しいのだろうか。そう思ったら素直に口に出していた。
「物好きね。暇なの?」
「風情があるといってほしいわ。暇じゃない」
「何それ。清少納言や小野小町じゃあるまいし」
「その例えがよくわかんないよ。何時代なの」
「例えは例えだからいいの!」
ふーん、と気の抜けた返事。彼女の私に対する興味が急になくなった。ふいと顔を逸らされて少しムカついた。
見た限り食事をした形跡はない。私は空腹だった。今日は忙しくて、ゆっくり昼食を摂る時間もなかった。夕食を作るのは私だろうけど、暗黙の了解は時に私を不愉快な気持ちにさせる。
「ねえ、いつまでそうしてるつもり?」
「月が出てきて、わたしを満足させてくれるまでかな」
「まさか、貴女の視線に気づいて月が出てくるとか言わないよね?」
少し皮肉を込めて言うと、彼女は冷めた目をこちらに向ける。
「……ロマンチスト?」
「誰がよ」
キミ、と刺された指をぱちんと払い落とす。全く失礼なやつだ。
私はこんな不毛なやり取りに嫌気が差して、大げさに不機嫌を表現する。
「あーお腹空いた! 面倒だから今夜はパスタでいいよね」
返事はない。私はテーブルに手をついて立ち上がる。その手を彼女が掴んだ。 何、と言いかけた私の唇を何かが掠めていった。
「でも、キミは気づいてくれるよ」
私の唇に触れた唇をぺろりと舐めて、不敵に笑う彼女は、ひどく艶めかしい。それでいて、清純さで偽装した詩的な言葉を紡ぐ。
抽象的な物言いなんて、伝わらない人には伝わらない。言いたいことは、はっきり言った方がいいに決まっている。曖昧さはいつだって争いを生む。破局から戦争まで様々な争いの根源だ。
こうして私達が一緒にいることができるのは、たまたま波長が合って、たまたま相手の言いたいことを汲み取るのが上手いからに過ぎない。
「……じっと見られてたら、嫌でも気づくでしょ」
「そっかあ。わたしが特別だからだと思ってた。あ、見て。月がきれい」
折角いい雰囲気になっても、平気でぶち壊していく。それが彼女と私。だから私は、月にまでヤキモチを焼く羽目になる。
ぐいっと無理やり彼女の顔を私の方に向けさせた。きょとんとした表情はすぐに上書きされる。今にも舌舐めずりしそうな、そんな顔に。
私は彼女と違って文学的な物言いも、素直に気持ちを伝えることもできない。
「――月なんかより、私を見なさいよ」
でも、今なら死んでもいいと思っている。
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